受験参考書をテーマにしたマンガ、『ガクサン』に伊藤和夫先生の名前が出てくるエピソードがありました。
例えば…
佐原実波『ガクサン』72冊目「うるし、著者の本音を知る2」(講談社)より引用
伊藤和夫先生
言わずと知れた「受験英語の神様」と呼ばれた予備校講師
そしてロングセラー参考書の著者でもある
こういった超人が先駆者だったから講師は授業ができて当たり前という空気になった
(略)
しかし…授業で話すことと本を書くことはもともとは「違う仕事」ですよね
「しゃべる」と「書く」は別の能力なのだから
よい予備校講師が必ずよい本が書けるわけではないでしょう
ちょっとこのセリフが気になったので、今回は「予備校講師と参考書」について書いてみたいと思います。
無難な参考書ばかり出るようになった
なぜ予備校講師が参考書を書くようになったのか、そしてなぜ今の参考書は個性を失ってしまったのか――。
そんな参考書業界の構造について、この回はわかりやすく解説しています。
簡潔に言えば、80~90年代は予備校文化の全盛期で、予備校講師が個性的な参考書を出して受験生に支持された(つまり「売れた」)。
ところが今は予備校文化が廃れて、予備校講師が書く参考書も無難で網羅的なものになってしまった、ということです。
出版社の側も30年前の名著に勝つことができず、ネットで叩かれないように保守的な思考になっていると言います。
そこで出てくるのが、さっき引用した『ガクサン』の登場人物である福山のセリフです。
伊藤和夫師が予備校講師として一流でありながら、ロングセラーの参考書を書けたのは、「しゃべる」と「書く」という二つの異なる才能を持った「超人」だったからだというのです。
しかし、人気がある講師だからと言って、「書く」ことが得意とは限りません。
人気がある講師には編集者はオファーを出しますが、上がってきた原稿はひどいもので編集者が手を入れてやっと世に出せるレベルになる、なんてこともあると言います。
そんな講師を見て、下に続く若手も無難な参考書しか書かなくなる――。
こういう業界の構造はすぐには変わらないが、編集側はやる気と実力のある講師をサポートして、批判を恐れず現状を打破する覚悟を持たなければいけない、と福山は言うのです。
伊藤和夫は特別な「超人」?
この現状分析は当たっているところもあると思いますが、違うと思うところもあります。
「本当に伊藤和夫は『超人』だから、予備校講師としても参考書の著者としても成功したのか?」ということです。
確かに、伊藤和夫という人は日本英語教育の歴史に残る「天才」で、生涯に何十冊もの名著を書いたという点では「超人」とも言えるでしょう。
しかし、80~90年代には伊藤先生以外にも数多くの個性的な講師が著書を出しています。伊藤師のような「超人」に限った話ではないのです。
ではなぜ、昔はそんなことが可能だったのでしょうか?
当の伊藤師はこんなことを言っています。
「一冊の教材を作るというのは、一冊の参考書を書くことなんだ。だから、あらかじめ参考書が書けるだけの体系がアタマの中になくてはできることではない。」
(駿台予備学校公式サイト「駿台予備学校のあゆみ 師たちの回顧/英語科 伊藤和夫先生にきく」より引用)
伊藤師は参考書を書くのと同時に、駿台の英語科主任として数々のテキストや模試を作成していたのです。
「講師」と「参考書の著者」というのは全く性質の異なる別の仕事ではなく、伊藤師に言わせれば「教材を作ること」と「参考書を書くこと」は同じことなんだというわけですね。
各予備校の主力講師であればテキストや模試の作成に関わっているので、参考書を書くための下地はあったわけです。
代々木ゼミナールの場合は、人気講師はオリジナルの単科講座を持って、個性的な授業で競い合っていました。
そのオリジナル講座では講師が自らテキストを編集していたわけですが、「付録」が充実していて市販の参考書以上に分厚いテキストも存在しました。
やはりかつての代ゼミの講師も、参考書を書くための素養はあったことになります。
80~90年代に大手予備校講師が個性的な参考書を出し、それが名著として読み継がれている背景には、こういう事情があったのではないかと思うのです。
名著には名編集者の存在がある
こう言うと、「授業やテキスト制作の経験はあっても、参考書で文章として解説するのは別のことなのでは?」と思うかもしれません。
でも、参考書で一番大事なのは「教える内容」であって、「文章がうまい」というのはそこまで重要ではないと思います。
確かに、「しゃべるのはうまいけど、書くのは下手」という講師はいるかもしれません。
そこで大事なのが、「編集者」という存在です。
あがってきた原稿に「ここはわかりにくい」「ここはこうしたほうがいいのでは?」という指摘や提案をするのが、編集者の大きな役割です。
本というのは著者が一人で書くわけではなく、ある意味で編集者との二人三脚で作られるものなんですね。
「内容」さえしっかりしていれば、「文章」の方は元の原稿がつたなくても改善は可能です。
逆に、「文章」がいくらうまくても、「内容」の方は専門家ではない編集者にはどうすることもできません。
80~90年代の人気講師はアタマの中に「教える内容」はいっぱい詰まっているので、あとはそれを優秀な編集者が引き出すことができればいい。
こうやって、30年以上読み継がれる歴史に残る名著たちは生まれていったのでしょう。
もう名著は生まれないのか?
では、今(2020年代)ではどうでしょうか。
『ガクサン』でも述べられているように、無難な参考書が多く、とがった内容のものは少ないと言えます。
予備校文化の全盛期である80~90年代には、英語の伊藤和夫、現代文の堀木博禮・田村秀行、数学の3N(中田義元、根岸世雄、野澤悍)や山本矩一郎――といった後世に多大な影響を与えた伝説的な講師たちがいました。
現在活躍している先生方を悪く言うつもりはないですが、やはりあの当時の予備校講師がすごかったというのは事実だと思います。
また、伊藤和夫師のように圧倒的な実力と絶大な権力を持った講師が、予備校全体のカリキュラムを決定するような時代ではなくなったという事情もあるでしょう。
将棋における藤井聡太八冠のような天才が学参業界に彗星のごとく現れる可能性もなくはないですが、もう伊藤和夫を超えるような講師は出ないのではないか、と思うことがあります。
30年前の参考書が今も売れ続けているというのはたんにブランド力があるだけではなく、それだけの「内容」があったからなのです。
とはいえ、入試も変わりつつある現在、新しい時代の入試に対応した参考書も必要ですよね。
もちろん、今でも良い参考書を出す著者は数多くいます。
良い参考書を出す講師は、やはり駿台・代ゼミ・河合といった大手予備校でテキストや模試の作成に関わっている先生が多いという印象があります。(※もちろん例外はあります)
逆に、人気はあるけど参考書の中身は大したことがないという講師は大手予備校での指導経験がなかったり、浅かったりすることが……おっとそれ以上はいけない。(※もちろん例外はあります)
出版社のみなさまには、人気がある特定の講師にばかり書かせてくだらない参考書を量産するのではなく、本当に実力のある講師に依頼して、新しい時代の参考書を生み出してほしいと思うしだいであります。
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