伊藤和夫が語る「学校で英語を教える理由」~伊藤和夫『予備校の英語』(研究社)

以前、伊藤和夫師の小学校英語についての発言をご紹介したところ、大きな反響がありました。

この発言は伊藤和夫師の評論集『予備校の英語』(研究社)からの引用です。

2024年現在では小学校で英語が正式な教科として教えられていますが、この発言は1996年のものです。

かなり早くから小学校英語について批判的だったことになりますが、なぜ伊藤師はこのようなことを言ったのでしょうか?

「受験英語」と「実用英語」

「受験英語は読み書きばかりで、難しい問題を解けるようになっても簡単な会話もできない」

こういう批判は今でもよく耳にしますが、伊藤師が存命中の30年以上前にもこの手の批判は多かったようです。

こうしていわゆる「受験英語」とは違う、「実用的」な英語教育を求める声が高まっていきます。

そこで小学校から英語を教えることが検討されたのが、1986年の臨時教育審議会(臨教審)でした。

臨教審といえば、「ゆとり教育」の始まりとしても知られています。

でも、小学校から英語を教えるとなれば、「ゆとり教育」で教える内容を減らしていくという動きには明らかに逆行していることになります。

それで伊藤師は、小学校英語なんかで子どものゆとりを奪うなんて矛盾してるじゃないかと皮肉を言ったわけですね。

英語の前に日本語が大事

受験生の英文和訳の答案を数多く見ている伊藤師は、英語以前に日本語の能力に問題があるのではないかという受験生が少なくないことを指摘します。

例えば、「有用である」と訳すべきところを「必要である」と書いてしまう。

これは単純な単語力の問題ではなく、「有用」と「必要」の違いを理解していないことによる間違いだというのです。

あるいは Because he overslept, he was late for school. という英文を「なぜなら彼は寝過ごして学校に遅れたからだ」と訳している答案も少なくないといいます。

こうなるともはや英語や日本語の問題ではなく、もっと大事な「原因⇔結果」という認識がおかしいということになります。

「実用英語」などというけれども、大学に入るためには英語の受け答えなんかよりも、「有用と必要の違い」や「因果関係の認識」のほうがよっぽど大事ではないか、というわけです。

しかし、だからといって現代国語(現代文)を教える時間を増やしても日本語の能力が高まるわけではない、と伊藤師は言います。

そもそも、なんで英語やるの?

そもそもの問題として、「学校で英語を教える意味」は何なんでしょうか?

私たちは物心がついた時には「母語」を習得しています。

日本語が母語の人であれば、特に意識せずに日本語をすでに使える状態になっているわけです。

しかし、意識しないで使えるから、かえって意識的に日本語を使う(例えばさっきの例の「有用と必要の違い」のように)のが難しいのです。

そこで必要になるのが「外国語の学習」です。

外国語を学ぶことによって、私たちは日本語を客観的に見ることができるようになる。

いわば外国語は日本語を映す「鏡」なのだと伊藤師は言っています。

だからそれは英語でなくても、中国語でもアラビア語でもいいし、古文や漢文だっていいのです。

そしてそこで大切なのは「和訳」です。

英語を日本語に訳すことによって、私たちは「英語と日本語の違い」というものを嫌でも意識することになります。

英語だけでなく、日本語についても見つめ直すことになる。だから「鏡」なんですね。

伊藤師は「英語」という教科を通して、日本語も含めた言語能力の向上がはかられると言うのです。

英語教育の本質とは?

学校教育の中でも英語は、親や企業からも「実用性」が求められる教科です。

しかし、物理や歴史などの他の科目は、社会に出て直接何かの役に立つわけではないですよね(その専門の仕事につく人は別にして)。

それ自体が何かの役に立つというよりも、物理だったら物理的な考え方、歴史だったら歴史の見方のような、「思考法」や「知識の枠組み」が他の場面で活用できるということに意義があります。

それなのに英語だけが「外国人に道案内する」とか「海外に行ってハンバーガー屋で注文する」というような低次元な効果を要求されて、「日本語を中心とした言語の能力を身に付ける」という基本が忘れられている――。

何が本質であり、子どもの一生の中で本当に必要なものは何かを十分に見定めた上での教育内容の選択とそれにふさわしいテスト形式が今こそ求められているのである。(伊藤和夫『予備校の英語』P.93「大学入試と日本語」)

と、伊藤師は提言しています。

伊藤和夫『予備校の英語』について

『予備校の英語』(研究社)は伊藤和夫師による唯一の(学習参考書ではない)一般書です。

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予備校講師という学校の先生とは違った立場から、学校英語教育、学習参考書、予備校の教授法などについて論じた評論集で、参考書には書かれていない伊藤師の思想を知ることができます。

今回は小学校英語について取り上げましたが、この他にもさまざまなテーマが辛口の筆致で論じられています。

その鋭い提言は今の英語教育にも完全に当てはまることが多く、伊藤師が30年後も見通していたことに驚かされます。

予備校の先生や予備校文化に興味のある方はもちろん、英語教育にかかわるすべての人が読むべき本だと思います。

最後に、本書の「はしがき」の一節をご紹介します。

やがて、おそらくは四半世紀を隔てて、なぜあの時代、二十世紀の一部の日本人はあの環境であんなに英語が読めたのかという問いかけがなされる時が必ずやってくる。その時になって、眠れぬ森の美女ならぬ眠れぬ森の金庫番を勤める「老爺」、または老いた兎の役が筆者に割り当てられるという百万分の一の偶然に期待しつつ、とりあえず当面の筆をおくことにしたい。
伊藤和夫『予備校の英語』「はしがき――「悪役」の退場と「色男」の悲哀」より引用

英語教育の中で常に「悪役」を押し付けられてきた「受験英語」はいずれ少子化によって過去のものとなるだろうが、いつの日か再評価されるはずだと伊藤師は願っていたのですね。

この「はしがき」の日付は「一九九七年一月九日」となっています。

それは伊藤師が逝去されるわずか12日前。本書は伊藤和夫師が未来の私たちに託した遺書であったと言えるでしょう。

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